▪ ▪ 藤尾勝治郎年譜 1
■ 藤尾勝治郎 誕生物語
■ 1938年(昭和13年)父正雄・母カナ子の次男として兵庫県小野市小野町駅前に誕生。
生後1ヶ月で高砂市荒井町に転居。
6歳まで暮らした荒井の幼少体験が後の創作活動に多大の影響を与える。荒井幼稚園終了。
<父親の自転車の前籠から眺めた工場のある風景(播磨灘海岸・高砂鉄橋・駅舎と線路・コークス貨物とトロッコ・河川と船舶・大海水浴場など) が後年まで印象に残る。>
■ 1944年(昭和19年)父の生地小野市来住町に疎開する。この1年の体験が(母方の郷里・宗佐と共に)後の農村画のインスピレーションの2大源泉となる。来住小学校に1年生の1年間在学する。
<戦火を逃れ小野市に疎開し、小さな藁小屋で家族6人が暮らした。>
■ 1946年(昭和21年)終戦を迎え明石市藤江(現・藤が丘)に転居。藤江小学校・望海中学校卒業。
■ 漫画投稿時代 <小学校6年〜>
<藤江小学校6年から望海中学校三年まで投稿漫画少年時代を送る>
(平凡社別冊太陽「少年漫画の世界Ⅰ」【子供の昭和史(昭和20~35年)】漫画少年の神話に3コマまんが投稿少年として掲載される)
(「漫画少年史」寺田ヒロオ編著1981年発行・1954年投稿まんが入選4回掲載)
■ 1954年〜広告制作時代 <15歳〜>
■ 1954年(昭和29年)中学卒業後明石市東仲之町成功社看板店に見習いとして就職する。
<看板店に就職後は、休日ごとに水彩絵の具と画架を携えて屋外に写生に出かける画家志望少年となる>
■ 1956年(昭和31年)看板店を退職し実兄正之(現在画家日影 眩)の元へ商業美術(図案)の見習として弟子入りする。神戸市立湊高等学校(定時制4年・神戸市兵庫区)に入学(60年卒業)。
<卒業生に児童文学・灰谷健次郎=共通担任>
■ 全日本学生公明選挙ポスターコンクール文部大臣奨励賞
■ 兵庫県学生緑化運動ポスターコンクール入賞 同じくバッジコンクール入賞
■ 1957年(昭和32年)抽象絵画に魅せられる ■ ペンキ絵「アンドロメダの砦」描く
■ 1958年(昭和33年)兄正之上京。のちに商業美術家として神戸(兵庫区西出町)で独立する。
<神戸市立南蛮美術館に毎週日曜日に通う>
<芦屋具体美術主催「ミッシェルタピエを囲む会」も参加>
<吉原治郎氏からタピエ氏を紹介され握手を交わす>
■ 兵庫県商業デザイン展入賞(神戸新聞会館)
■ 日本宣伝美術会(日宣美)展に初入選(19歳)
<L・マンフォード(芸術と技術)H・リード(モダンアートの哲学)に強い衝撃を受け抽象に進路を定める>
▪ ▪ 藤尾勝治郎年譜 2
■ 1960年〜グラフィックデザイナー時代 <21歳〜>
■ 1960年(昭和35年)神戸市立湊高等学校卒業と同時に青雲の志を抱いて21歳で上京。兄正之の下宿に3ヶ月居候。
画家、デザイナーの道の選択に悩み小野市出身の画家・宮脇公実氏(新制作)を東京・下高井戸に訪ねるが会えず、デザイナーの道を歩むことになる。
<A・ペブスナー(ロシア・抽象彫刻)に傾倒する。アメリカ留学を考えアメリカ大使館を訪れる。
金属抽象(モニュメント)を目指し東京藝術大学を受験するが失敗>
■ 1962年(昭和37年)スイスの冷たい抽象運動に出会い深い共鳴を抱く季刊誌「スピラーレ誌」の購読者となる。
<カール・ゲルストナーを礼賛する日本への理論的紹介者勝見勝氏(美術評論家)に質問状を出し懇切なる返信をいただく>その後スピラーレ誌が廃刊となり一大打撃を受ける。
■ 1963年(昭和38年)冷たい抽象を断念する。
ニコライ学院・英語基礎課程終了 青山絵画研究所で石膏デッサンを学ぶ。
■ 1964年(昭和39年)深井順子(東京・王子生まれ)と結婚
■ 1965年(昭和40年)■ 日宣美展特選
■ 1966年(昭和41年)アートディレクター相原正信氏(日宣美会員・ADC会員)との出会い。
雑誌「旅」の目次絵、ポスターデザイン及び「時刻表」の
ポスターデザインの制作に携わる。
■ 1967年(昭和42年)■ 日宣美展奨励賞
■ ADC(東京アートディレクターズクラブ)入選。
■ 1968年(昭和43年)■ 東京アートディレクターズクラブADC銅賞受賞。
■ 日宣美会員となる。<年鑑広告美術-1968-に「旅」「時刻表」ポスター作品4点が集録される。>(同年鑑はアムステルダム美術館に永久保存図書としてコレクションされた)
■ 1969年(昭和44年)■ 秀作車内ポスター展特別賞を受ける ■ 同展ベストテン入賞(70年にも入賞)
<日宣美粉砕共闘起こる>
■ 日本のグラフィックデザイン展(ハンブルグ・ドイツ)招待出品・勝見勝氏(デザイン評論家企画)
■ 1970年(昭和45年)■ デザインジャーナル紙論文発表。
2月15日号「眠り続ける死の風土」3月15日号「現代デザインと巫呪の伝承」3月15日号・4月15日号「否定の霊」連載
日宣美粉砕共闘激化する・東村山山荘全国集会に出席する
日宣美解散。絵画への転向の決意固まる。
<歴史読本(人物往来社)より随筆の依頼を受けるが丁重に辞退する。>
■ 東京中野時代 <34歳〜>
■ 1973年(昭和48年)東京都中野区上高田に転居。画家生活の第一歩を歩み始める(34歳)。
トキ墨を用いた幻想風白黒細密画小品を数十点制作。
リトグラフ十数点を制作。ポップアートへの感心が深まりコミック風の版画20点を制作。
▪ ▪ 藤尾勝治郎年譜 3
■ 1977年(昭和52年)■ 第一回個展・松村画廊(東京・銀座) <ポップアート風の版画20点を展示>
■ オーストラリア大学建築科に(ロンシャンの教会)1点がコレクションされる。
■ 1978年(昭和53年) 母逝去<享年65歳>
■ 1979年 明石市に帰郷<40歳〜>
■ 1979年(昭和54年)単身の父の住む、明石市藤が丘へ帰省 環境の変化によりシルクスクリーン作品の制作が困難となる。
<このことが後に幼児体験世界(コミックナイーブ)の発見に繋がる>
<油彩技法の研究を始める・油彩カルトンを制作する>
■ 1987年(昭和62年)父逝去<享年79歳>
■ 1988年(昭和63年) ■ 第二回個展・フタバ画廊(東京・銀座)
<幼児体験世界(コミックナイーブ)白黒細密画を展示・旧知の非難と未知の人々の称賛を受ける>
< 朝日新聞・マリオンの頁に写真版が掲載される >
■ 1989年〜 西二見時代 <50歳〜>
■ 1991年(平成3年) ■ 第三回個展展・地球堂ギャラリー(東京・銀座)地球の泡ー時間を遡る絵画世界ー(コミックナイーブ)第二弾
< 会場を訪れた美術評論家・瀬木慎一氏選出の週刊ポスト誌(ポストコレクション)に作品が掲載される >
■ 1994年(平成6年)■ 第四回個展・地球堂ギャラリー(東京・銀座)見る詩・読む絵(コミックナイーブ)白黒画にカラーを加え17点を展示
<画廊主・田辺すずさんより画廊協会展出品の推薦を受ける>
■ 1995年(平成7年)■ JCA 第15回’95日本画廊協会展・東京セントラルアネックス(東京・銀座)
■ 1996年(平成8年)■ コレクション展・海文堂ギャリー(神戸)
■ 1998年(平成10年)■ 第五回個展・地球堂ギャラリー(東京・銀座)人工海楽園ー原光景パノラマ図鑑ー(コミックナイーブ)
<ルーマニア女流画家カメリア・マティ氏他の絶賛を受ける>
■ 2000年(平成12年)■ 第六回個展・歩歩琳堂ギャラリー(神戸)<画廊企画>ー幼児体験を母体とした追憶の絵画世界ー(コミックナイーブ)油彩・水彩総計63点を展示
< 関西初の個展としてサンテレビ・ニュースの時間に放映される >
<油彩画の重厚マチエールに惹かれるようになり木筆・竹筆を考案>
▪ ▪ 藤尾勝治郎年譜 4
▪ そして21世紀の制作は、
■ 2001年(平成13年) ■ 第七回個展・歩歩琳堂ギャラリー(神戸) <画廊企画>新作水彩24点を加え追復展を開催
<2001年〜2008年の研究課題>うす塗り細密画から厚塗細密画への移行=8年をついやす。
▪︎ 子供の遊び(テネシーワルツ・ぶち独楽)
▪︎ 禁断仏究輪亜瑠堂=キンダーブックワールド=(キトラ・エレファント・三頭象)総ての油彩画に木筆・竹筆(自製)を用いるようになる
■ 2009年(平成21年)■ 第八回個展・小野市立好古館(歴史博物館)<好古館企画>(兵庫県・小野市) 郷里小野市で郷土ゆかりの画家「なつかしの絵画世界」展を開催
<14歳の自画像・十代の抽象画・スケッチブックまでを含む油彩・水彩等、総計98点を展覧>
< 神戸新聞(記事)神戸新聞読者クラブ(ネット)に紹介される >
■ 2010年(平成22年) <体調を崩す>
■ 2013年(平成25年)■ 「田舎の大きな木 II 」制作
■ 2014年(平成26年)■ 「父と子 II」制作
■ 2015年(平成27年)■ 「牧舎の夕立II」制作
■ 2016年(平成28年)■ 「大海原II」下絵のみ制作
■ 2017年(平成29年)体調思わしくないなか水彩画小品を制作
・油彩画旧作品に加筆する
■ 2019年(平成31年)4月3日 永眠 <享年80歳>
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